プロダクト開発やチーム作り、組織支援などを行ってきた上で、「今ここの自分」として何に関心を置いているのか判然としないところがあった。プロダクト開発から事業開発、事業開発から組織開発とその領域を広げてきて、その次は? と問うと答え難い。そもそも、広げなければならない必然性もない。
「アジャイル」は引き続き、自分にとっての「芯」にある。アジャイルなプロダクト作り、アジャイルなチーム、アジャイルな組織。それらがまた、一気呵成に理想にたどり着くことはなく、アジャイルに進展していくことになる。つまり、アジャイルに向けて、アジャイルに進み続ける。このあたりの言い回しがいつも分かりにくくするのだが、表現としてはそうなる。アジャイルは道のりであり、向かう先でもある。
しばらく組織支援を軸に活動を行ってきて、たどり着いたのは「組織そのもの」に特別な感情があるわけではないということだった。具体的な「人」を抜きにして、”ある組織” が漠然と良くなっていく、というストーリーに忠誠を誓う気持ちは湧いてこない。組織を変えるために誰かと組む、のではなく、ある人とともに望ましい場を、状況を、作っていく。それはプロダクトかもしれない、チームかもしれない、部門かもしれない、会社かもしれない。対象が大事なのではない。誰とやるかが大事なのだ。「バーチャルな誰か」のために粉にする骨も砕く身も、私には残っていない。
その前提を置いて、もう少し考えを進めてみる。プロダクトも、チームでも、組織でも良いのだとしたら、一体扱う対象は何だと言えるのか。それは「構造」なのだと思う。「モデル」もしくは「システム」とも言える。コンクリートのように固まった静的な構造のイメージではない。
例えば、プロダクトとはドキュメントで表現しきれない。組織もまた組織図で表現しきれるものではない。いずれも、ある構造を元にして、「動き」が存在する。プロダクトにはプロダクトとしての振る舞いが、利用者との絡みが、そしてその開発にチームの営みがある。もちろん組織も、その実体は人と人との情報の疎通と協働によって成り立つものだ。こうした「動き」を含めた構造、経時変化を含めた状況、つまり「システム(系)」としての理想をイメージし、近づけていく。ここに私の関心がある。
そして、目指したいシステム(系)のイメージも徐々に見えてきた。それは、システム(系)自体が、アジャイルであるということだ。プロダクトはチームとユーザーとともに徐々に成長していくものだ。プロダクト周辺の変化自体を受け入れる、あるいは変化そのものを作り出していく。そのようなプロダクトの系(プロダクトそのもの+プロダクト作り+周辺概念)とはアジャイルと言える。
組織も同様のことが言える。効率に最適化してきたおかげで、かえって非効率に安定化した組織に欠けているのは「探索する」ことと「適応する」ことだ。いかに組織を取り巻く環境、状況を掴み直し、自分たちは何者なのかにむきなおり、やはり変化を受け入れる、あるいは変化そのものを作り出していく。そのような組織の系(組織構造 + 人 + 協働のプロセス…)とは、アジャイルと言える。つまり、系として「アジャイルであること」が向かう先になる。
もちろん、アジャイルなプロダクトにも、アジャイルな組織にも、一足飛びにたどり着けるわけではない。むしろ、アジャイルな系として「これで完了」といった完成形などは存在せず、歩み続けることになる。そのように考えると、アジャイルな系に向かっていくその道のり自体が試行錯誤であり、仮説立て検証を踏まえた適応を行っていくことになる。つまり、その道のり(ジャーニー)はアジャイルと言える。ゆえに、アジャイルに向けて、アジャイルに進み続ける、という表現が成り立つ。
このように捉えると、今度は対象に広がりが出てくる。対象はプロダクト、チーム、組織に限らない。システム(系)という概念が適用される領域は範疇に入ってくる。例えば、地域医療、地域のコミュニティといったむきなおりが必要な地域システムもテーマになる。規模の大きな話だけに限らず、逆に家族の関係といった極めて身近な当事者システムも対象になる。
この「アジャイルシステム・ジャーニー(アジャイルに向けて、アジャイルに進み続ける)」には可能性というか、ライフワーク感が芽生えている。これまでのシステム(系)から次の段階を模索していきたい対象はいくらでもあるように思える。もちろん、このジャーニーはともに臨む人たちがいることで始められる。ともに臨む人たちがいればこそ、その道のり自体が目的になっていく。
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