"回避戦略" とは何を回避するのか 年末から「回避戦略」を掘り下げて考えています。この言葉にはどうしても「失敗を避ける」「失敗しないための戦略」という意図を感じられるかもしれません。 しかし、ここで言う回避戦略はそういうものではありません。意図しているのは、「失敗を避けること」ではなく、人の認識が偏った方向へ、強く固まってしまうことを避けるための動きです。 少し言い換えるならば、回避戦略とは「結果」をコントロールする試みではありません。「人が、どう世界を捉えるようになっていくか」という認識の変化、その流れに介入しようとする試みです。 チームやそれを取り巻く関係する人々を含めて私たちは、仕事に取り組む際、「情報を得て認識して判断、行動する」という認識システムを暗黙的に構築しています。この認識システムに意図しない誤謬が紛れ込んでいくと、やがて判断として立ち戻れ無くなってしまう状況を招いてしまいます。 「回避戦略」の回避とは、この状況を生まないようにすることです。失敗は最初から学びでも致命傷でもない 「回避戦略」を考えていくうえでの起点は「失敗」をどう捉えるかにあります。失敗そのものは、最初から学びでも、致命傷でもないと考えます。仮説を立て、試し、違ったと分かる。それは本来、世界に手触った結果として得られる「情報」でしかありません。その情報が、あとから意味づけされ、「学び」になっていくわけです。 ですから問題は、「思っていたのと違う」という想定違いを得てしまうことではないのです。むしろ、そうした想定外、想定違いを発見していくことに、「作る、試す、正す」営みの意義があります。 問題は、失敗が、学びとして扱われない状態が続いていくことです。このとき起きているのは、「失敗」という出来事のほうが内容として変わっているのではありません。失敗という情報を受け取る人間のほうが、変質していくのです。 この点を見誤ると、「失敗をどう減らすか」「どう防ぐか」という議論にすり替わってしまいます。失敗させない構造のほうに持っていってしまうわけです。「失敗を扱えない」ではなく「失敗を扱えなくなる」 「失敗」をうまく扱えない問題を、もう少し解像度を上げて見ると、少なくとも二つの状態があることに気づけます。失敗を受け止められない失敗を受け止められなくなっていく 最初から前者である場合もあります。失敗を許容しない文化、最初から答えを求める構造ですね。それはそれで、明確に回避すべき対象であり、むしろ分かりやすく最初から現れていることが多いですから、別の問題として扱います。 より厄介だと感じているのは後者のほうです。最初は、失敗を受け入れるつもりだった。耐性もあった。仮説検証や試行錯誤の必要性についても、理解していた。 それでも、やがて組織の中で「合理的」とされてきたこれまでの判断基準や評価との接触にさらされているうちに、少しずつ受け入れられなくなっていく。この「なっていく」という過程こそが、掴むべきところだと思っています。 この過程に極めて気付きにくいところに厄介さがあります。最初は「点」でしかなかった声がやがて、「流れ」になり、大きな「潮流」として押し流してしまう、そんなイメージがあります。点から潮流になるまでの時間は加速度的です。これはまずいと気付いたときには手が打てない。そんな難しさがあります。人は合理的に変質する そう、人は、ある日突然変わるわけではありません。少しずつ、合理的に、環境に適応するかたちで変わっていくのです(あるいは元に戻っていく)。失敗が重なっていくこれまでの価値観でいう「成果(目先の儲け)」が見えないそのことを指摘する声が「(チームの)外側」から寄せられてくる この三つが重なっていくとき、周囲の関係者に影響が還っていくとともに、取り組むチームである当事者自身も変質していきます。慎重になる。動きが鈍る必要以上に語らなくなる。余計見えなくなり周囲に不安を与える試さなくなる。決め打ちし始める。もちろん成果は掴めない これは「弱さ」ではありません。チームの能力が低いわけでもありません。その環境、その状況で生き延びるための、きわめて合理的な適応だと言えます。そして、その合理性ゆえに、学習は止まり、そのことに誰も気付けないのです。学習が止まるときに起きていること 何が起きているのでしょうか。この流れの中にあっても、まだ「失敗を避けるのではない」という声が聞こえるでしょう。チームも、関係者も、「失敗を受け入れる」というスタンスを意図的に捨てているわけではないのです。ただ、失敗を「起こさないように振る舞う」方向へと、人が自ずと最適化されていくのです。 失敗が重なり、組織の従来の価値基準では成果として認識されない時間が続き、そのことへの言及が大きくなっていくとき、人は「立ち戻る」ことができない状態へと変質してしまう。仮説に立ち返ること、「新たに分かったことで、仮説キャンバスを書き直そう」前提を問い直すこと、「この仮説の前提から違っていたのではないか?」もう一度試し直すこと、「よく分からなかった...だからこそもう一度検証しよう!」 そうした行為そのものが、本人たちの心理的にも、周囲との関係性の上でも、コストの高いものになってしまう。人は環境を選べない さて、もう一歩踏み込んでこの問題に迫っていきましょう。実は、この因果自体は、想像ができます。「このままいくと、立ち戻れなくなってしまうのではないか」「この関係者のかたの認識を置いておくとやがてぶつかりそうだ」現場に身を置いた経験がある人であれば、思い当たる場面も多いはずです。 厄介なのは、自分たちだけでこの認識を持てていれば良いわけではない、という点にあります。チームだけがこの因果を気にさえしていれば問題を回避できるわけではないのです。 チームを取り巻く、承認者、評価者、関係者。それは社内であることもあれば、顧客である場合もります。こうした周囲の方々の認識を、直接的にコントロールすることはまずもって難しく、現実的ではないことが多いはずです。 しかも、多くの場合その関係性、環境は固定されているのです(組織の権限構造として存在する)。「相手を変える」「関係を切る」といった選択肢もまた現実的ではないわけです。"時間を稼ぐ" という戦略(「余白の戦略」) 環境が容易に変わらないのであれば、次に問うべきは、「変化に必要な時間をどう確保するか」でしょう。チーム自身も含めて、その仕事に関わる人たちが安易に変質してしまわないように、「作る、試す、正す」の考えに根差せるようになる。そのための時間が必要です。 いくら、理屈が立っていようとも、明日からそうありましょうとはなれない。仮に、一歩が踏み出せたとしても、その歩みを持続させることは難しい。大事なことは何度も立ち返り確認する必要があります。そうした往復のなかで、自分たちのものになっていくのです。 ですから、変化に必要な時間の確保、「余白」を生み出す動きが、必要になるのです。この余白への備えこそが、「回避戦略」です。言葉の印象はあまり良くありませんが、ある意味では時間を稼ぐための戦略なのです。 拙速な評価や、早すぎる意味づけから距離を取り、人がまだ立ち戻れる状態を保つための時間。それを現実的に扱えるために、「仮説展開ストーリー」を描き、選択肢の確保に務めるのです。そう、「余白」とは、選択肢の現実的な確保(=周囲も認識でき、合意できている)を指しています。同時に、周囲の関係者には展望(という名の仮説)を示し、どのような意図で「成果」に立ち返るつもりなのかを示しているのです。 ちなみに、書籍「正しいものを正しくつくる」でも、余白の話が出てきます(「余白の戦略」)。粒度は異なりますが、意図するところは同じと言えます。あの本では人の「認識」、その変質にまで踏み込んでいませんでしたが、余白の意図するところは、選択できるようにする、状態をつくることです。失敗の「扱い方」を設計する まとめておきましょう。「回避戦略」で狙っているのは、「失敗は学びであり、成果でもある」そう言える状況そのものを作っていく、ということです。 失敗を守るのではありません。人が立ち戻れなくなってしまう変質から守るために、失敗の扱い方を設計する。これをあと付けでは人の認識に立ち向かえないため、最初から示しておく。それが、ここで掘り下げている回避戦略の正体と言えます。